2019/04/30
平成最後の自分語り(無駄に長いです…)
平成最後の日。振り返ると言うともうほぼ人生そのものを振り返るようなものなので思い出せたものだけ書いてみようかな。
自分は今40歳。
平成になったのは9歳の時だから小学4年生だ。
この時はもうすでに何で生まれてきたんだろうとか考えてしまうような偏屈な子供だったかな。
人生で初めて告白されたのは6年生の時だった。
一学年下の子で自分もその子のことを好きだったのに恥ずかしくて断ってしまったのを憶えてる。
このころから残念な奴だったのかもなぁ…。。
小、中とサッカー部だったけれど動機がとても不純でサッカーが好きだったわけでもなくやりたかった訳でもなく強制入部だったために野球はボールが小さくてあたると痛そうだし早いボールが怖かったのでボールの大きいサッカーなら当たってもいたくないだろうということと兄がすでに野球部だったので同じ部活には入りたくなかったので仕方なくサッカー部に入っただけだった。
6年間やったけれどレギュラーには一度もなれなかったし望んでもいなかった。
強制的にやらせれているだけだから事務的に部活動をしていればそれだけで義務は果たせると思っていた。
なんとも向上心のない子供だったと思う。
高校へは自動車整備士になりたくて自動車科のある高校へ進学したけれどそこはとても評判の良くない学校で…
当時は今でも後悔してしまうようなやんちゃなことをしてしまったしあまりいい思い出はない。
たいして頭の良くない自分でもクラスで2番目の成績だったけれど自分で希望して自動車科に進んだのは良いけれど実際に習ってみるとあまりにも専門的なことが多くて挫折してしまった。
中学からの友達が辞めてしまったことも影響して自分も1年生の夏に退学した。
勉強はもうこりごりだったけれど高校だけは出ておきたいという気持ちはあったので次の年に定時制高校へ入学した。
定時制の高校だったけれど昼間部という日中通学する制度があってそれだと普通の高校と同じく3年間で卒業できるのも魅力だった。
高校へはアルバイトしながら通学したけれど高校での一番の思い出はやっぱりバイクかな。
時間があれば峠へ走りに行ってたなぁ。
3年生になるころには車の免許も取って最初のうちは親の車を借りていてしばらくしてから興味のない車種の車を買わされてしまい(自分が選んだものはすべて却下されて父親が勝手に選んで買ってきてしまった)泣く泣くその車を乗っていた。
初めての彼女ができたのも丁度そのころ。
友達の彼女がいてその人からアプローチを受けてしまいずっと一人で切ない思いをするよりは良いかなと思ってしまった。
以前からその人のことをいいなとは思っていたのだけれども。。
略奪愛ということで一番心配だったのがその後の友達との付き合い。
その友達と関係が壊れるのは嫌だなと思ってその後も普通に接しようと努力した(お互いに)けれどやはりうまくいかず段々と遊ぶ回数も減り疎遠になってしまった。
それからは友達の彼女とはもう付き合わないと心に決めた。(その後似たようなことが何度かあったけれどこの経験から付き合うことは無かった)
その彼女とは3年くらい付き合って他に好きな人が出来たからとフラれた。。
車に乗るようになってもバイク熱は冷めていなくて高校を卒業するまでに中型免許を取って友達から譲り受けた2ストのレーサーレプリカを乗っていた。
19歳で高校を卒業してガソリンスタンドに就職した。
そこの職場は車好きな人しかいなくてとても楽しい職場だった。
日常的に車に触れられていることも楽しかったなぁ。
二十歳までには大型バイク免許を取得したくて教習所で大型バイクの免許が取れるようになったので教習所へ通った。
無事念願だった二十歳までに大型自動二輪免許を取得するという夢をかなえられて充足感にあふれていた。
行きつけのバイク屋で大型バイクを買った。
本当は9Rが欲しかったのだけれどバイク屋の店主にやめておけと言われてしまい言われるがままに勧められたXJR1300を購入した。
本当に欲しかったバイクではなかったけれど大型バイクに乗れているという嬉しさのほうが勝っていた。
職場でもディスプレイのようにバイクを置かせてもらってお客さんが嬉しそうにまたがることもあった。
でもそんな楽しい日常も自分の至らなさで終わってしまう。
バイクで事故を起こしてしまったのだ。
大けがをしてしまい完治するのに2年間もかかってしまった。
職場に迷惑をかけるわけにもいかずすぐには職場復帰できないことを理解した時点で退職した。
働けなかった2年間は友達が積極的に外へ連れ出してくれて(このころはまだ友達と呼べる人たちがいた)退屈はしなかった。
怪我が完治したころに知り合いの人にアルバイトをしないかと声をかけられて土木関係のアルバイトを始めた。
数年アルバイトとして働いたのち正社員になれたのだけれどそのころにはもううつ病の症状が出ていた。
本当はもうそこの職場に魅力を感じていなくてやめたかったのだけれど他の仕事につける保証もなく具合が悪くなっていくことを認識しつつもやめる勇気がなかった。
そのうちに頭痛と頭重感がひどくなり視界もはっきりせず暗闇の中で生きているみたいになってしまった。
これではもう務まらないとそこの職場をやめた。
最初はうつ病とは分からずにいろんな病院へ行ってみたけれど異常はないということで最終的に精神科でうつ病と診断された。
うつ病になってからは親の経営する会社の手伝いをしながら通院した。
通院先の病院で同級生に出逢った。
どうやら彼女もうつ病で通院しているらしかった。
通院日が同じということで病院終わりに二人で会うことが多くなり付き合うまでには時間がかからなかったように思う。
そのうちに同じ親の会社で働いていた兄に他の仕事を勧められる。
自分もいつまでもここにいる訳にもいかないかなと感じてしまい静岡に派遣社員として働きに行った。
初めての一人暮らしで孤独だったけれど彼女が遊びに来てくれたりしてプチ同居生活をしたりもした。
仕事は社内の資格も取って仕事自体はまずまずだったけれど精神的に不安定になってしまい考えがまとまらなかったり仕事しているうちはいいけれど休憩時間に何をしていいのか分からなくなったり人とうまくやっていけなくなって地元へ帰る決心をした。
地元に帰ってからはまた精神科へ通院することになったのだけれどいつまでたっても治らないので意味がないんじゃないかと思うようになってしまい通院するのをやめてしまった。
仕事はまた親の会社の手伝いをしていた。
主にデータ入力の仕事だった。
最初のうちは出来ることが少なくて短時間労働だったけれど徐々に仕事をおぼえていってやれる仕事も増えてきた。
そのうちに社員にならないかと言われたけれど社長である父と専務の兄と面接をしなければならないということで恥ずかしすぎて断った。
そのころもバイクには乗っていて初めて北海道ツーリングに行ったのもそのころだったと思う。
でもだんだんと頭重感や思考障害や人を意識してしまうような症状が出てきて家に居るのも辛くなって一人暮らしを始めた。(一人でも楽しめる趣味を持ちたいと登山をはじめたのもこの頃だったかな)
最近上手くいってなかった彼女とも一人暮らしを始めたことでよりを戻しつつあったけれどそんな中会社が経営不振に陥ってしまう。
せっかく一人暮らしを始めて彼女とも結婚を意識するようになっていたのに…
それに日々症状が悪化していく中で慣れている職場だから何とか務まっていたもののもし今の会社が無くなったら新たに仕事につける自信が全くなかった。
そんな不安をよそに会社は見る見るうちにやせ細ってしまいとうとう休業状態になってしまった。(事実上の倒産)
精神状態の悪化と経済的理由で彼女とは別れることにした。。
会社が無くなる前に一人暮らしもやめて実家に戻り職探しをしたけれどそう簡単にはいかずいくつか面接をしたうちの一つの運送会社で採用が決まりこれで生きていけると思ったのもつかの間実際仕事をしてみると激しい幻聴と認知機能障害と不眠で全く仕事を覚えられなかった。
こんな状態で働き続けても迷惑をかけるだけだと思ったので1週間でやめることに。
その後は家で療養するも幻聴は激しくなっていくばかりで全くよくならない。
幻聴に耐えきれなくなって通院を初めて現在に至る…。
疲れてしまってだいぶ省いたところもあるけれど…
自分にとっての平成は良いことも悪いことも沢山ありました。
後半はあまりよくないことが続いたけれどこれもまた人生かなと受け入れるしかないですね。
最後まで読んでいただきありがとうございます。。

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